言語のモデルと意識
これは 人工知能アドベントカレンダー の24日目の記事です。
今回は前回の小脳のモデルとは異なり、まだ明らかにされていない部分が多い言語や意識について関連研究を見ていきましょう。
両者は全く異なるように思えますが、あることが意識に上っているか(アウェアネス, aweaness)は言語によって確認することが多いので、まとめて扱います。
言語のモデル
実は言語野については計算機モデルがあまりなくあまり書くことがありません*1。そもそも言語野の機能自体がまったくわかっていないのにそれを具体的にモデル化できないのは当然なのですが……。
既に8日目の記事で説明したように、各部位がある行動をしているときに活発に活動するという相関関係はfMRIによってかなり良く調べられているのですが、各部位がなにをどのように処理してどこに送っているのかについては不明瞭な点が多いのです。ブローカ野、ウェルニッケ野の発見に始まり、近年では左下前頭回から左運動前野は文法処理に関わっているとされるなど色々進展はあるのですが、言語は「何を話したいか」という動機が重要で意識の問題が絡むので解明が難しい部分です。
たとえば、近年はDeep Learningベースの言語モデルがたくさん発表されて、自然な文章を生成することができつつあります(有名なものだと、Recursive Neural Network, Recurrent Neural Network, Long Short-Term Memory(LSTM)*2 )。ここでいう言語モデルは、「ある文章がどれだけ自然か」の評価方法のようなものであって、一番重要な「何を話したいか」という部分のモデルがないという問題があります。
とはいえ、言語野が左半球にあることと関連して、意識はどこで生まれるのかについて興味深い実験がたくさんあります。
意識はどこにあるか
脳の働きによって意識が生まれるとするなら、それはどこの部位でどのようなメカニズムによるのかというのは大きな疑問です。
たとえば小脳は欠損していても体のなめらかな動きが阻害されたり、知能の低下が見られたりしますが、意識そのものは保たれます。また、視覚野が障害されると網膜などが正常でも目が見えなくなりますが、意識は保たれます*3。脳機能の局在を仮定するなら、どこかに「意識を処理している」部分がありそうです。
分離脳の研究から、意識は主に左側にありそうに思えます*4*5。
左半球は主に言語、計算、意図して行う行為などに対して優位であり、右半球は空間的注意、外界と自己の位置関係の把握、比喩の理解などに対して優位な傾向があるようです。概して言えるのは、左半球が扱っているものは「わかりやすい」ものが多く、右半球は比較的「わかりにくい」、つまり普段あまり意識に登らないものの高度な精神的活動をする上で重要なものを扱っているようです。ですから、左半球が重要で右半球は大したことをしていない、というわけではないことに注意してください*6。
脳の処理と意識はどれくらい関係しているか
一般的には、「脳で処理した情報が意識に登ってきて、そこで諸々の判断をして身体にフィードバックする」、といったモデルを考えることが多いと思います。これはどれくらい正しいでしょうか。言い換えれば、無意識と意識はどれくらいの割合あるのでしょうか。
分離脳患者の例
分離脳の患者に対して、患者の左視野(右半球で処理される)に「歩け」というカードを見せると、患者は席を立って部屋から出ていきました。実験者(スペリー)が「なぜ部屋から出て行ったのか?」と聞くと、被験者は「喉が渇いたのでコーラを取りに行こうとした」と答えた例があります。もちろん本当の理由は、歩けというカードを見たからなのですが、その情報は言語野がある左半球には送られなかったので、適当な理由を作った(作話)わけです。
作話の例をもうひとつ挙げると、海馬に損傷があり前向性健忘をもった患者に対して、実験者が握手を求めます。もちろん患者は快く握手に応じるのですが、このときに隠し持った装置で軽い電気ショックを与えます。すると患者は当然怒り出すのですが、記憶を保持できないのでしばらくすると忘れてしまいます。翌日に同じ実験者がまた握手を求めると、電気ショックのことは記憶に保持出来ないはずなのに患者は握手を拒否するのです。さらにおもしろい点は、「なぜ握手したくないのですか?」と聞くと「さっきトイレにいって手を洗ってないので」と答えたのです。どうも脳は結論がまずあって、それと矛盾しないような記憶や理由をでっち上げることがあるようです(しかもそこそこ妥当な理由を非常に高速に作り出す)。
別の例だと、男性の左半球と右半球にそれぞれ「卒業したらなにになりたいか?」と聞くと、左半球は「建築家(architect)になりたいので今は学校でその勉強をしています」と答えました。一方、右半球だけに聞くと*7どうなるでしょうか?右半球は言葉を話せないのですが、この男性は右半球にも少し言語能力があって声には出せないけれど左手で文字が書かれたブロックを並べて意思表示をすることはできました。答えは左半球同様、「建築家」でしょうか?
なんと、患者の左手は「カーレーサー(race car driver)になりたい」と答えたのです。結果を見た実験者(ガザニガ)はもちろん、患者本人も非常に驚き「なぜこんなことを言った(書いた)のかわからない」と困惑しました。
これらの例を見ると、左半球は意識を生み出しているというよりは意識を統合している部分があるようです。通常であれば、右半球の情報は脳梁を通って左半球にも送られるので、ここで情報が統合されて、先の例であれば「カーレーサーになりたい」という情報が上書きされるか、競合して消えるのかもしれません。
運動準備電位の例
準備電位(readiness potential) というのは、身体(筋肉)を動かす少し前に観察される脳の活動でこれ自体は昔から知られていました。ただ、準備電位が「体を動かそうと思う前」なのか「体を動かそうと思った後」なのかは実験が難しいのでわかっていませんでした。通常であれば、「体を動かそう」と思うから体を動かすわけで逆はあり得なさそうに思えます。
有名な Libet らの実験*8や、その後の追試では、「体を動かそう」と思う「前」に準備電位が発声することがわかったのです。つまり順番としては
- 体を動かそうと思う
- 準備電位が発生する
- 実際に筋肉が動く
ではなく
- (何かの理由で)準備電位が発生する
- 体を動かそうと思う
- 実際に筋肉が動く
の順番なのです*9。つまり、少なくともある環境においては、意識というものは実際の行動を追認して適当な理由を作っているだけであることがわかってきたのです。
図で 0sec と書かれているところが「体を動かそうと決意した瞬間」の時刻のはずだが、それよりすこし前からすでに準備電位が上昇している (Libet et al. 1982, Public Domain)
このあたりの「意識はどれくらい身体に影響を及ぼしているか」については様々な仮説があり、「意識はただ身体の反応を後追いで認識しているだけで自由意志というものはない」という極端なものももちろん含まれます(受動意識仮説)。
意識の役割はなにか
既に見てきたように、そもそも意識がほんとうに必要なのかといった根本的な問いから、意識はどれくらい我々の行動に影響を及ぼしているのかといった点まで広範な議論がなされています。
度々このアドベントカレンダーにも出てきているガザニガは、「脳は様々なモジュールが独立に動いているが、それらをすべてひとつに統合する解釈装置があり、ここで情報が統合される結果、意識的な決定も無意識的な決定も区別できなくなる」といったような仮説を提唱しています。
脳が様々なモジュールの連携によって動作しているということはもはや議論の余地がないほどですが、特に大脳新皮質の各モジュール(領野)がどのように連携してなにをしているのかについては、明日の記事で詳しく見ていきましょう。
*1:ここでチョムスキーの形式言語の話をしても脱線するだけなので、触れない
*2:S. Hochreiter and J. Schmidhuber, “Long short-term memory,” Neural Computation, 9(8), pp. 1735–1780, 1997.
*3:視覚の部分的喪失の場合、本人は見えていないことを自覚していないことが多く、さらにそれを指摘されても否定する行動を取る(アントン症候群, Anton's syndrome)こともある
*5:単に左半球に言語野があるから感じたことを言葉で表現できる、というだけで、これだけでは右半球に意識がないとはいえない。意識はあるがそれを表現する術を持たないだけかもしれない。このあたりは議論の余地があるようだ
*6:ただし、言語野はその性質上重要なので、外科手術の際はどちらに言語野があるのか(大抵左だが、右半球にあることも珍しくはない)を調べることがある
*7:実験では、左視野だけに「卒業」という文字を見せて、「…したらなにをしたいですか?」と聞いた
*8:B, Libet., EW Jr, Wright., and CA, Gleason (1982). “Readiness-potentials preceding unrestricted 'spontaneous' vs. pre-planned voluntary acts”. Electroencephalogr Clin Neurophysiol 54 (3): 322-335.
*9:あまりにも信じられない結果に、Libet自身がこの結果を否定するような解釈をしている。たとえば「意識(自由意志)というのは、体を動かそうとする無意識に対してそれをキャンセルするようなことだ」という様々な無意識的活動を抑制することこそが自由意志であるとする説。ただしあまり支持されていない