Sideswipe

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記憶

これは 人工知能アドベントカレンダー の9日目の記事です。

生理学よりの話は今回で最後です。記憶の概要について見ていきましょう。

記憶の分類

一口に記憶といっても、その種類は様々です。様々な分類方法がありますが、今回はもっとも一般的な物を紹介します。
まず概要を説明すると、もっとも大雑把な分類としては短期記憶と長期記憶があります。前者はある程度時間が経つと完全に忘れてしまう(忘却)もので、長期記憶は固定されて忘れることがないものです*1*2
さらに長期記憶は陳述記憶と非陳述記憶にわけられます。前者は言葉で説明できる記憶(「あなたの誕生日は?」「住所はどこですか?」「三角形の面積の求め方は?」など)で、後者はそうでない記憶です。言葉では言い表せない記憶というのは一見わかりにくいのですが、これは要するに「体で覚える」タイプのものです。自転車の乗り方や、泳ぎ方は非陳述記憶です。長期記憶はもっと細かく分けられますが、これは追々見ていきましょう。

短期記憶(ワーキングメモリ)

短期記憶(short-term memory, STM) はもっとも持続時間の短い記憶です。たとえば電話番号を覚えるとか、初対面の相手の顔と名前を覚えるとか、買い物の時にレジでいくら出せばいいかとかそういったもので、特に何もしなければ(覚えようとしなければ)数秒から数分程度で完全に忘れてしまいます。

昔は7個までしか覚えられないとされていた*3のですが、その後の研究で今は「4」とされています*4

なんで昔は7だと思われていたのかという点ですが、人は短期記憶を覚える(記銘する)とき、効率化のために情報をひとまとめにしており(これをチャンク化といい、ひとまとめになった情報ひとつひとつをチャンクという)、このせいで見かけの記憶容量が増えていたのです。

たとえば、 「3578639」という数字を覚えるのは少し大変ですが、「357-8639」とか「3578-639」と分けるとすこし覚えやすくなります。チャンク化は意識的にも無意識的にも行われており、これによって4つしか覚えられないという制限を少し緩和しています。

短期記憶がどのような仕組みによって実現されているかはまだわかっておらず、様々な仮説があるのですが、少なくとも大脳皮質、特に前頭葉が主要な役割を果たしているようです*5

長期記憶

長期記憶(long-term memory, LTM)は短期記憶とは真逆で、覚えるのに時間がかかるものの一度覚えれば永遠に忘れない記憶です。
たとえば、試験勉強の際にテスト開始ギリギリまで教科書を見ていろいろ記憶しようとするとある程度覚えられますが、数時間後には完全に忘れています。これは情報が短期記憶には記銘されたものの、長期記憶には記憶されなかったため、と説明されます。逆に、たとえばハサミの使い方、九九、母校の名前、自転車の漕ぎ方、などは一度覚えればその後何年も使わなくても再び思い出すことができます。これらは長期記憶に固定されたためだと説明されます。

既に述べたように、長期記憶は陳述記憶(宣言的記憶ともいう)と非陳述記憶(手続き記憶ともいう)にわけることができ、さらに陳述記憶は意味記憶エピソード記憶にわけられます。

陳述記憶 - 意味記憶

意味記憶は文字通り言葉の意味に関する記憶です。「山とはなんですか?」「犬には脚が何本ありますか?」「日本の首都はどこですか?」といったものは意味記憶になります。

陳述記憶 - エピソード記憶

エピソード記憶はその人の個人的な体験に関する記憶です。自分の名前、自宅の住所、今朝何を食べたか、お気に入りの店、などといった記憶があてはまります。
より砕けた言い方をすれば、映画やドラマで記憶喪失になった人が忘れている情報が陳述記憶です。あの人たちは走ったり車の運転をしたりでき、他人の言うことを理解することもできます。つまり非陳述記憶も意味記憶も保たれています。ただ自分が誰で今までどんなことをしていたのかというエピソード記憶だけが失われているわけです。

意味記憶エピソード記憶は単に「個人の経験によるものか」という違いしかないので、脳内でこの2つが明確に別れて処理されているのか(もしそうなら、なぜその必要があるのか?)*6についてはよくわかっていませんが、一般的には別物として扱います。

展望的記憶

展望的記憶(単に展望記憶とも)は、今まで触れていませんでしたが、未来に関する記憶です。まだ経験していないという点で他の記憶とは異なり、「あとで牛乳を買いに行く」「来週の火曜日に病院に行く」「来年までに机を買う」といった将来のことに対する記憶です。

非陳述記憶(手続き記憶)

既に何度か触れていますが、非陳述記憶は言葉では言い表せない記憶です。一般には体の動かし方が当てはまります。自転車の漕ぎ方や泳ぎ方は、言葉でコツを説明することはできるかもしれませんが、他の記憶と違ってそれを聞いたところでマスターできるような性質のものではありません。何度も身体を動かして記憶する必要がありますが、一度記憶したらずっと忘れません。

これらをテレビゲームをやるときに例えるなら、

  • ゲームのルールを覚えるのは意味記憶
  • 今の戦局を元にどう行動すればいいか考えてるときは短期記憶
  • ゲームを何度もやって上達するのは非陳述記憶
  • 昨日ゲームをやったがうまくいかず悔しかった、というのはエピソード記憶
  • 明日の午後7時になったら友達とゲームする約束がある、というのは展望的記憶

という分類になります。

生理学的な知見

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それでは、これらの記憶はどのように実現されているのでしょうか。まず大雑把な対応関係としては

であり、かつ短期記憶を陳述記憶として固定するために海馬(hippocampus)が必ず必要です*7

非陳述記憶は別として、陳述記憶は大脳で処理された情報がまず海馬に保存され、その後必要だと判断された記憶(長期記憶に転送するべき情報)は海馬から大脳に転送されて長期記憶になると考えられています。細かい点では様々な説がありますが、このように情報は大脳から海馬にいったん保存されて、次に時間をかけて大脳に固定されていくというモデルが支持されています。

「記憶は最初はぼんやりとしか覚えていなくて、繰り返し覚えようとすることで次第に明確に刻まれる」と思われていますが、実際は脳の中を記憶が移動しているわけです。

海馬の構造

海馬体(Hippocampal Formation)は図のようにいくつかの部位から構成されます。海馬体のことを指して海馬ということもありますが、厳密には海馬(hippocampus, アンモン角ともいう)は海馬体の一部でしかありません。また、海馬はCA1, CA2, CA3の3つからなります。
さらに、嗅内野(entorhinal cortex)や海馬(uncus of hippocampus)も海馬体に含めますが、これらは大脳皮質の一部(海馬傍回)でもあるので図では点線でわけました。

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大脳皮質からの入出力は、ほとんど嗅内野経由でやりとりされます。その他、視床側坐核扁桃体、乳頭体との連絡があることもわかっています。側坐核扁桃体、乳頭体は、報酬、快・不快、恐怖、快楽などを制御している部分と考えられており、これらの器官と海馬が密接に結合している(場所も近い)ということは、「入ってきた情報を記憶として留めておくかどうか?」の判断に感情が強い影響を与えるということを示唆しています。たとえば、とても怖い思いをしたときや腹が立ったときは、それが一瞬のことであっても何十年も記憶が残ります。一方で普段入ってくるたくさんの情報は長期記憶には保存されずに忘却します。この閾値を決めるのに感情が役立っていそうです。

海馬内部の構造や神経構造についてはかなりわかっているのですが、あまりにも長くなるのでここでは割愛します。

海馬による記憶の形成

新しい陳述記憶を形成するためには海馬が必要だと考えられており、これは様々な研究から強固に支持されています。

新しい情報が入ってくると、まず主な経路として視床→大脳皮質と情報が流れ、ここで様々な情報処理がなされます(何を見聞きしているか、どう体を動かせばいいか、将来どうするか、など)。このうち、覚えておいたほうが良いと判断された情報は、主に側頭葉から海馬に入力されます。海馬は他の部位と異なり、繰り返し練習しなくてもすぐに入ってきた情報を覚えることができるという特徴*8があり、陳述記憶として暫くの間保存されます。

海馬に保存された記憶のうち、さらに重要であると判断された情報は、少しずつ時間をかけて大脳皮質に転送されます(転写)。これには非常に時間がかかりますが、一度転写された記憶は永遠に記憶されます。
非常に複雑なこと、たとえばパソコンの操作や、数多くの漢字の読み方であっても、なんども繰り返しているといつの間にか完全に覚えておくことができます。これは海馬から大脳皮質に転写が終わったので、長期記憶として完全に固定されたためです。

コンピュータに例えると、海馬は容量が少ない上に定期的にリフレッシュしないと情報が失われてしまう一方非常に高速に読み書きできるキャッシュメモリで、大脳皮質は容量は(キャッシュメモリに比べると)無限と言っていいくらいあるものの、読み書きは非常に遅いメインメモリやハードディスクのようなものといえます。

このように、海馬は入ってきた情報に応じて素早く神経ネットワークを変化させて新しい情報を記憶することができるという、他の部位にはない特殊な能力を備えています。ただ、海馬は非常に脆弱な部位で、大きな、あるいは長期間のストレスを受けたり、アルツハイマー病や酸欠になると海馬から先に萎縮してしまいます。瞬時に記憶を固定できるという能力と引き換えにこのような脆さを背負う必要があったと考えられます。

場所細胞とグリッド細胞

最近ノーベル賞を受賞したことで有名になった海馬の神経細胞に、場所細胞とグリッド細胞があります。

場所細胞


Hippocampal place cells recorded in the Wilson lab ...

場所細胞(place cell)は、ある場所を通ったときにだけ発火する神経細胞で、特にCA1は非常に多くの場所細胞があることがわかっています*9

上の動画はラットの場所細胞が反応する様子を動画にしたもので、色が違う点はそれぞれ別の場所細胞が発火したことを表しています。これを見ると、ある場所にいるときだけ発火する専用の細胞があることがよくわかります*10

この場所細胞はありとあらゆる場所をそれぞれひとつずつ担当しているわけではなく、その時々に応じて受け持つ範囲を動的に変更できるようで、ある部屋のある位置で反応していた細胞は、別の部屋の別の部屋でも反応します。この変化は場所や課題*11の変化に応じて瞬時に行われ、海馬の柔軟性が遺憾なく発揮されているようです。

場所細胞がどれくらい場所に特異的に反応しているかというと、いくつかの神経細胞さえ測定できれば、実験用ラットが部屋のどこにいるのかを数センチの誤差で当てられるほどです*12*13

グリッド細胞

グリッド細胞(grid cell)は嗅内皮質で発見された、規則正しく網目のようにつながった神経細胞で、これは地図のような役割を果たします。ラットが少し場所を変えると、今まで反応していた神経細胞のとなりの神経細胞が反応し、また少し移動するとやはりすぐ隣の神経細胞がよく反応するようになります。

しかも、ラットが課題を行っている景色を回転させると、それにあわせてグリッド細胞の発火場所も回転することがわかっています。まさに、カーナビの画面のようなシステムがグリッド細胞で実現されているのです。

おわりに

海馬のことについてはまだまだたくさんのことがすでに判明していますが、ここではその概要でさえも到底書ききれないので、まだ後日時間のあるときに触れることにして、記憶と海馬について簡単に説明しました。

*1:長期記憶は忘れることがない、というのは不自然に思われるかもしれないが、「脳に完全に刻み込まれていて、思い出すきっかけがないだけ」と考える。たとえば、大昔に見た映画のストーリーや歌を思い出せといわれて出来なくても、実際にその映画や歌を見聞きしはじめると展開を次々と思い出すことができます。つまり、記憶としては存在するものの、なんらかの形で思い出せないだけで、忘却されてるわけではない、と考えるわけです

*2:情報を覚えることを記憶、記銘といい、思い出すことを想起とよぶ。特に自ら思い出そうとして想起することを再認、他の要因からの連想によって想起することを再生とよぶ。さらに、これらの情報を完全に忘れてしまうことを忘却とよぶ

*3:この7個というのをマジカルナンバーといい、Miller(1956)の実験が非常に有名

*4:Cowan, N. (2001). The magical number 4 in short-term memory: A reconsideration of mental storage capacity. Behavioral and Brain Sciences, 24, 87-185

*5:海馬が損傷しても短期記憶には影響が出ない一方で、前頭葉の損傷は重大な影響が出る

*6:「個人的な体験かどうか?」は重要ではなく、「時間と場所に依存しているか?」が重要だという説がある。これならば時間と場所について専門的に処理しているところがあると仮定すれば、両者が別の記憶だというのも納得がいく。また、「一度しか経験できないかどうか?」で考えることもある

*7:いったん海馬に入った記憶が長期記憶に固定されると海馬からはなくなるのか、ある程度残るのかはよくわかっていない

*8:教科書の内容を覚えたり、自転車の漕ぎ方はなんども繰り返し練習しないと記憶として定着しませんが、今どこを歩いているかとか、数時間前に駐車場のどこに車を止めたかとか、今何について話しているのかといったことは何度も経験しなくても(そもそも何度も経験できない)数時間か数日くらい覚えています。こういった情報は海馬に忘却されるまで残っています。

*9:R U Muller, J L Kubie, J B Ranck, Spatial firing patterns of hippocampal complex-spike cells in a fixed environment. J. Neurosci.: 1987, 7(7);1935-50

*10:バリバリと音がなっているのは細胞が発火したときをわかりやすくするため。「目で見ればわかる」と思うかもしれないが、視覚より聴覚のほうが時間分解能が高いので音も鳴らしている。たとえば、ある2つの点が同時に光ったか、すこしずれていたか?を判断するより、2つの音が同時に鳴ったかどうかのほうがより短い時間まで認識できる。視覚は空間分解能が高いが時間分解能は低く、聴覚はその逆の特性を持っているため、ヒトは知らず知らずのうちに両者を使い分けてなるべく多くの情報を得ようとしているようだ

*11:たとえば迷路のゴールにたどり着くと餌がもらえるなど

*12:E N Brown, L M Frank, D Tang, M C Quirk, M A Wilson, A statistical paradigm for neural spike train decoding applied to position prediction from ensemble firing patterns of rat hippocampal place cells. J. Neurosci.: 1998, 18(18);7411-25

*13:この方法ではカルマンフィルタを使って予測精度をあげているようだ