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Sideswipe

情報工学、計算論的神経科学など、真面目なこと書くブログ。お仕事の話は Twitter: @kazoo04 にお願いします。

海馬のモデル

これは 人工知能アドベントカレンダー の21日目の記事です。

海馬の生理学的な話はアドベントカレンダー9日目で扱ったので、併せてご覧ください。

kazoo04.hatenablog.com

海馬の機能

海馬(hippocampus)がどんな機能を担当しているのかをおさらいしておきましょう。
大きく分けると、以下の2つが挙げられます。

エピソード記憶

特に前者のエピソード記憶については昔からよく研究されており、海馬が障害されると前向性健忘(新しくものを覚えることができない)がみられます*1。たとえば、ある人に会って、挨拶をしたり会話を交わしたりしている間は問題ないのですが、別れて10分ほど経ってからまた同じ人に会うと、まったく覚えていないのでまた初めて出会ったかのように振る舞います。年をとった自分の顔も覚えられないので、前向性健忘が起きてから何年も経ったあとに鏡を見ると患者は困惑しますが、それもやはり10分程経つと驚いていたこと自体も忘れてしまいます。

その他様々な知見から、脳が得た情報というのは大脳皮質を経由してからいったん海馬に貯蔵され、その後時間を掛けて「これはずっと覚えておくべきだ」と判断されたものだけが少しずつまた大脳皮質に保存されるという多段構成になっているといわれています。前向性健忘も、海馬を失っても大脳皮質は残っているので、昔の記憶は失われなかったというわけです。

自己位置推定

場所細胞(place cell)、グリッド細胞(格子細胞, grid cell)、頭の向きに選択的に反応する細胞(head direction cell)などの場所に選択的に反応するニューロンが見つかり、「自分がどこにいるのか」、「目的地はどの方向にどれくらい離れた場所にあるか」といった情報も海馬で処理されていることがわかりました。

海馬の本当の役割はなにか?

エピソード記憶と自己位置推定は全く別の機能のように思えるので、なぜ海馬がそのような質の異なる情報を一手に担っているのかと思いますが、エピソード記憶的に考えれば、「どこで」起きた情報かは非常に重要ですから、場所細胞と密接に関わっているということはいえます。また、大脳皮質の感覚野には、聴覚、触覚、視覚といった様々な情報(モダリティ, modality)が別々の場所に入力されてきますが、それらは少しずつ統合されて様々な感覚が混じったもの(超感覚種)になり、その結果だけが海馬に入力されます*2エピソード記憶を組み立てるときは、そのような高次の情報を扱えたほうが効率よく情報を格納できる*3ので、海馬で位置情報とエピソード記憶を一緒に扱うのは都合がいいのでしょう。

それ以上に、この2つは別々の機能に思えるというだけで、実は単一のものであり、エピソード記憶と自己位置推定は同じような処理によって成り立っているのかもしれません。両者を担当している細胞は完全に別々なのか、一部は共通しているのか、完全に共通しているのかといった重なり具合についてはまだわかっておらず、今後注目すべきトピックかと思います。

海馬のモデル

生理学的な知見は蓄積されてきていて、海馬体のどの部分がどこと接続されているかといった情報は比較的よく知られています。
とはいえ、そのような構造がどのようにして、なにをしているのかについてはよくわかっていません。このあたりは様々なモデルが提案されていますが、ここでは少し変わった趣向のモデルを紹介します。

Slow Feature Analysis

Slow Feature Analysis (SFA) *4を使ったモデルは一部で人気があるようで、視覚野や海馬のシミュレートに使われています。

SFA は日本では非常にマイナーな手法なので、まずその概念について説明します。

SFA とは

動物を取り巻く環境は時々刻々と変化していきますが、その変化の度合いは様々です。たとえば、「今自分がいる場所」はまったく変わっていないか、ごくゆっくりとしか変わりません(車や飛行機に乗っているときは別ですが…)。逆に、目で見ているものは眼球運動によって(自覚できないが)かなりガクガク動いていますし、そもそもすべての感覚器からの入力にはノイズが含まれるのですべての信号は少なからず高速に変化しています。

いま、目の前を車が横切るように走っていくとします。視覚入力を局所的に見れば、時間にそって車に含まれる様々な形のエッジやテクスチャ、動きの情報がどんどん変化していきます。ただ、その変化の度合いは情報の性質によって異なり、単純なエッジのような特徴はどんどん変化していく一方で、「見ているものは車である」という情報は視界に入ってから出て行くまでは変わりません。さらに「今自分は屋外にいる」という情報はもっと変化の度合いがゆっくりしています。

このように、より高次の情報というのは、時間領域で見ると「ゆっくり変化する」という特徴がある(傾向がある)といえます。そこで、時々刻々と変化するデータ(時系列データ)から「ゆっくり変化する」データを抽出できたら、なにか有意義なことができるかもしれません。

SFAでは、時系列データから最もゆっくり変化する成分(slow feature)を抽出するためのアルゴリズムで、当初は視覚野のモデルとして提案されました。

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SFAの概念。入力(x)は高速に変動していくが、その中からゆっくりと変化する成分だけを抽出する(y)。Wiskottらの資料から引用

その後、海馬のモデルとしてSFAを使う研究が発表され、比較的シンプルな方法で場所細胞やグリッド細胞を再現することができました。

SFA による海馬のモデル

ここでは Franzius らの研究を紹介します*5

なにをしてるのかちょっとわかりづらい研究なので補足すると、場所細胞の再現のために、ゲームのような三次元空間をコンピュータ上に用意して、そこをキャラクター(ネズミ)が動き回ります。キャラクターには目の部分にカメラがついているので、キャラクターの動きにあせて視覚情報がどんどん変わります。要するにFPSゲームと同じですね。


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視覚情報を入力し、SFAで特徴抽出をして最後にsparse coding + ICA(独立成分分析)をする、というアーキテクチャ。少しDeep Learning (CNN) に似ているところがある。Franzius et al.(2007) から引用

得られた視覚情報を Franzius のモデルに入力すると、グリッド細胞のような反応をするニューロンや、場所細胞のような反応をするニューロンが得られた、というものです。
下図はマウスの実際の場所細胞の記録です。

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マウスの場所細胞の測定結果*6。これは海馬支脚の細胞を測定している。Boccara et al.(2010) から引用

次に示すのが、Franziusらのモデルによるシミュレーション結果です。

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シミュレーション結果。Franzius et al.(2007) から引用

ただ、「ゆっくりと変化する信号を抽出する」という単純な発想*7で、なかなか悪くない結果が得られます。

生理学的な根拠

ただ、いくらSFAが場所細胞とグリッド細胞の再現に有効そうなことがわかっても、海馬で「ゆっくり変化する信号を抽出する」ようなことをしているのでしょうか?生理学的な根拠がないと、優れたアルゴリズムでも脳のモデルとしては説得力に欠けます*8

この点では Sprekeler らが SFA が STDP で再現できるとの研究*9を発表していて、私がまだちゃんと理解していないので細かく紹介できないのですが、完璧ではないにしろ、一部については生理学的な妥当性もあるようです。

STDPってなんだっけ?という方は、過去のアドベントカレンダーを参照してください。

kazoo04.hatenablog.com

おわりに

今回は海馬はもちろん、あまり知られていないSFAの紹介も兼ねて書きました。

海馬は「記憶」というわかりやすくてロマンがあって昔からその機能が知られている部位なので、色々なモデルが提案されています。日本でも海馬のモデルを研究している方が結構いるようです。

ただ、たとえば海馬は扁桃体(恐怖などを司る部位で、恐怖を感じたときの記憶は強く残る)の影響を大きく受けますが、このような感情に応じて記憶の残りやすさが違うといった点や、海馬から大脳皮質にどのように記憶が転写(固定)されるのかといった長期記憶との関係についてはわかっていない点が多く、これらを組み込んだモデルも皆無です。

一方でSFAのような変わった角度からのアプローチがあり、それなりに成果も出ているので、今後は生理学的なアプローチはもちろん、計算機科学な発想から神経科学的根拠を求める逆のアプローチも活発になるのではないかなと思います。

*1:ある程度の逆行性健忘も見られることが多い

*2:E G Jones, T P Powell, An anatomical study of converging sensory pathways within the cerebral cortex of the monkey. Brain: 1970, 93(4);793-820

*3:例えば人は写真のように正確に視覚のコピーを撮っておけるわけではなく、もっと抽象的な形でしか記憶できない

*4:Wiskott, L. and Sejnowski, T. Slow feature analysis: unsupervised learning of invariances. Neural Computation, 14(4):715--770, 2002.

*5:Franzius M, Sprekeler H, Wiskott L. Slowness and sparseness lead to place, head-direction, and spatial-view cells. PLoS Comput Biol. 2007 Aug;3(8):e166.

*6:Boccara, C. N., Sargolini, F., Thoresen, V. H. et al.: Grid cells in pre- and parasubiculum. Nat. Neurosci., 13, 987-994, 2010

*7:あとスパースコーディングを組み合わせることが重要で、そうでないと場所細胞のような特異的に反応するニューロンが得られない

*8:鳥がジェットエンジンを搭載していないように、必ずしも知的なマシンを作るのに生理学的な妥当性は必要ではないが、現在はまったく手がかりがないので、とりあえず生き物の模倣をしようという考え

*9:Sprekeler H, Michaelis C, Wiskott L. Slowness: an objective for spike-timing-dependent plasticity? PLOS Comput Biol 3:1136–1148.